魔幻小说:《伯爵与妖精》卷一 第一章1.2
「おい、起きろよリディア」
ニコのしっぽが頬(ほお)に触れる感触と、水音に我に返る。
思いがけず時間が経ってしまったようで、外は暮れかけ、薄暗くなった室内に、オイルランプの明かりがともっていた。
気がつけば、絨毯に寝転んでいたはずの青年はそこにはいなくて、ドアを開け放したままの洗面室に姿が見えた。
鏡越しに目が合う。リディアは思わず目を見開く。
褐色だったはずの髪の毛は、鮮やかな金髪になっている。無精ひげも剃(そ)ってしまったらしく、前髪を指でかきあげながらにっこりと微笑(ほほえ)めば、別人かと思うほど優雅だった。
「起きたの。なかなかかわいい寝顔だったよ」
「……はあ」
「きみの猫が怒らなければ、もっと眺めていたかったんだけどね」
クッションの上でニコは、知らんふりをしながら後ろ足で耳を掻(か)いた。ふだんなら、そんな猫みたいなまねはしたくないと言っているくせに。
「ていうか、あなたその髪」
「ああ、ちょっと染めてたんだ。地毛だと目立つからね。どのみち、連中にはバレたわけだけど」
濡れた髪を無造作(むぞうさ)に拭く。光沢のある金髪から覗(のぞ)く瞳は、間違いなくあの灰紫(アッシュモーヴ)だ。
その場で彼は、すり切れたシャツを不快そうに脱ぎ捨てた。
「レディの前ですよ、ご主人様(マイ?ロード)」
言いながら部屋に入ってきたのは、褐色の肌の少年だった。たぶん、リディアと同じくらいの年齢かと思われる。けれどやけに落ち着きはらっていて、にこりともしない召使いだった。
というか、召使い? それに、「ロード」?
「これは失礼。どうにもまだ、頭の中がうまく切り替わらないな」
若い召使いは、かかえてきた新しい衣服を彼に着せようとして、傷に気がついたようだった。
「ロード、お怪我(けが)を……」
「かすり傷だよ。どうせ衣服で隠れるから、このまま着替える」
そう言って彼は、召使いの肩に手を置いた。
「悩むな、レイヴン。このくらいのことで、人を殺す必要はない」
殺す? リディアは、不穏(ふおん)な会話に眉根(まゆね)を寄せた。冗談にしても悪趣味だ。
「はい」
と答えた召使いの表情は、冗談に笑うでもなく、主人を傷つけた相手を殺すべきか、本当に悩んでいるのかどうかもわからない。淡々と、慣れた手つきでボタンをとめる。
「ですが、間に合わないのではないかと心配しておりました」
「予定どおりだよ、レイヴン。こちらがミス?カールトンだ」
「ちょっと、どうしてあたしの名前を知って……」
「ハスクリーたちが探していた少女の名前は、リディア?カールトンだ。つまりきみがそうなんだろう」
それから彼は、急に思い立ったように召使いの手を止めさせ、リディアの方へ歩み寄った。
「申し遅れました、レディ。エドガー?アシェンバート伯爵(はくしゃく)です。どうぞよろしく」
手を取って、指に軽く口づける。
呆然(ぼうぜん)とする彼女を、おもしろがるように微笑んだ。
はっと我に返り、リディアは彼の手をぴしゃりとはねつける。
「は、伯爵? あなたが?……信じないわよ。あたしはロンドンに行く用があるの。おいとまするわ」
「もう遅いよ、船は出航した」
「ええっ!」
急いで窓辺に駆け寄ると、すでに陸地は、うっすらとした島影になっている。
「どういうことなの! これじゃ誘拐(ゆうかい)じゃないの! それにあたし、荷物はさっきの船に置いてきたままだし、バッグは落として一文(いちもん)無(な)しだし、この船に勝手に乗り込んだりして、無賃乗船になっちゃうじゃない!」
「心外だな。きみのことはきちんとロンドンへ送りとどけるよ。用が済んだらね。それから、身の回りの物は不自由ないように取り計らうし、ここは僕の船室だ。きみのチケットもちゃんとある」
「じゃ……もともとあたしをこの船に乗せるつもりだったのね? ハスクリーさんにつかまってたとか、ぜんぶお芝居ってこと?」
「あれは本当だ。芝居で自分の身体(からだ)に傷をつける趣味はないよ」
手首と襟元(えりもと)に傷。生々しいそれが目に入れば、リディアは責め立てる勢いをそがれる。しかし。
「奴につかまるしか、きみに近づく方法がなさそうだったからね。なにしろ僕は、きみの顔も特徴も知らなかった」
てことは、わざとつかまった?
「だったら……、髪の毛染める必要ないじゃない」
「ああ、それはね、つかまる意図があったって連中に思わせないためだよ」
リディアはめまいを覚える。すっかり混乱して、肝心(かんじん)の彼の目的を問いただすのも忘れていた。
「レイヴン、何時だ?」
リディアが悩んでいるうちに、さっさと彼は話を変える。
「もうすぐ七時です」
「急がないとディナーが始まる。ああそうだ、きみも着替えた方がいいな。オイゲン侯爵(こうしゃく)夫妻の席に招待されているんだ。デンマーク貴族で、僕をこの船旅に誘ってくれた。紹介なしにはなかなか乗れない船だからね」
リディアを乗せ、そのうえハスクリーが立ち入ることのできない船。ちょうどこの日、この港に停泊している絶好の船に、うまく招かれたなどあり得ない。船に目をつけた彼の方から近づいて、その侯爵夫妻に取り入ったのではないのだろうか。
ひょっとすると、とんでもない男につかまったのかもしれないと思えてきた。
「冗談じゃないわ、ミスター……」
「エドガーと呼んでくれ、リディア」
不信感いっぱいに、にらみつけるリディアにはかまわず、彼は機嫌よく続けた。
「アーミンはどこだ? リディア嬢(じょう)にドレスを」
「ええ、用意してますわ。レイヴン、そのタイはカフスの色に合わないわよ。こちらになさい」
ドレスとネクタイを持って、現れたのは男装の若い女性だった。脚にぴったりとしたスマートを身につけ、少年の召使いと同様、黒い上着を着ている。
髪は肩までしかないが、ひとめで女性とわかるのは、身体の曲線を隠そうとはしていないからだった。
彼女も召使いなのだろうか。
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