【双语阅读】【白夜行】第五回
捜査が進むにつれて、桐原洋介の足取りが徐々に明らかになってきた。
金曜日の昼間二時半頃に自宅を出た彼は、まず三協銀行布施支店で現金百万円を引き出し、近くの『嵯峨野屋』でニシン蕎麦を食べた。店を出たのが四時過ぎだ。
問題はその後だった。店員の証言は、桐原洋介は駅とは逆の方向に歩いていったような気がする、ということだった。もしそれが事実ならば、桐原は電車には乗っていない可能性が高い。布施駅に向かったのは、あくまでも現金を下ろすためだった、ということになる。
捜査陣は、布施駅周辺と現場付近を中心に聞き込みを続けた。その結果、意外な場所で桐原洋介の足跡が見つかった。
まず彼は、布施駅前商店街にある『ハーモニー』というケーキ屋に立ち寄っていた。このケーキ屋はチェーン店である。彼はそこで、「フルーツがたくさん載ったプリンはないか」と店員に訊いている。おそらく、プリン・アラモードのことであろうと思われた。この『ハーモニー』の名物が、それだったのである。
ところが生憎《あいにく》この時、プリン・アラモードは売り切れていた。桐原洋介と思われる客は、どこかに同じものを買える店はないかと店員に尋ねた。
女子店員は、バス通りにも『ハーモニー』の支店が一軒あるから、そっちに行ってみてはどうかといった。そして地図を出して、その場所を教えた。
その時客は、教わった店の位置を確認して、こう漏らしたという。
「なんや、こんなところにも同じ店があったんか。それやったら、これから行くところと目と鼻の先や。へえ、もっと早よ訊いといたらよかった」
女子店員が彼に教えた店の位置は、大江西六丁目というところだった。早速その店に捜査員が行って確認したところ、やはり金曜日の夕方、桐原洋介らしき人物が立ち寄っていることが判明した。彼はプリン・アラモードを四つ買った。ただし、そこからどこへ行ったかまではわからない。
男に会うためにプリンを四つも買っていくとは思えなかった。桐原が行った先には女がいたのだろうというのが、捜査員たちの一致した考えだった。
やがて一人の女の名前が浮かんできた。西本|文代《ふみよ》という女だった。『きりはら』の名簿に名前が載っており、彼女は大江西七丁目に住んでいた。
笹垣と古賀が西本文代に会いに行くことになった。
トタン板やありあわせの木材を適当に組み合わせたような家がびっしりと、しかも乱雑に建ち並んでいる中に、吉田ハイツという名のアパートはあった。煤《すす》けたような灰色の外壁には、ところどころどす黒い染みがある。蛇が這うようにセメントを塗ってある部分は、ひび割れのひどいところだろう。
西本文代の部屋は一〇三号室だ。隣の建物との間隔がないので、一階には殆ど日が当たっていなかった。薄暗くじめじめとした通路に、錆びた自転車が止めてある。
それぞれのドアの前に置かれた洗濯機をよけながら、笹垣は部屋を探した。手前から三番目のドアに、西本とマジックで書いた紙が貼られていた。笹垣はそのドアをノックした。
はい、という声が聞こえた。女の子の声だった。しかしドアは開かなかった。代わりに内側から問いかけてきた。「どちら様ですか」
どうやら子供が留守番をしているらしい。
「おかあさんはいてはれへんのかな」笹垣はドア越しに尋ねた。
これに対する答えはなく、再び、「どちら様でしょうか」と訊いてきた。笹垣は古賀を見て苦笑した。相手が知らない人間の場合、決してドアを開けてはいけないと教育されているのだろう。無論、悪いことではない。
笹垣はドアの向こうにいる少女に聞こえるように、しかし隣近所にはなるべく響かぬよう声を調節していった。「警察の者です。おかあさんに、ちょっと訊きたいことがあってね」
少女は沈黙した。戸惑っているのだろうと笹垣は解釈した。声から推測すると、小学生か中学生だろう。警察と聞けば緊張して当然の年頃だ。
鍵の外れる音がしてドアが開いた。しかしドアチェーンはかけられたままだった。十センチほどの隙間の向こうに、目の大きな少女の顔があった。陶器のように肌理《きめ》の細かい、白い頬をしていた。
「母はまだ帰ってません」毅然とした、という表現がふさわしい口調で少女はいった。
「買い物?」
「いえ、仕事です」
「いつもは何時頃にお帰り?」笹垣は腕時計を見た。五時を少し回っていた。
「もうそろそろ帰ってくると思いますけど」
「そう。そしたら、ここでちょっと待ってるわ」
笹垣がいうと、彼女は小さく頷いてドアを閉めた。笹垣は上着の内ポケットに手を入れ、煙草を取り出した。「しっかりした子やな」小声で古賀にいった。
「そうですね」と古賀は答えた。「それに――」
若手刑事が何かいいかけた時、再びドアが開いた。今度はチェーンがかかっていなかった。
「あれ、見せてもらえます?」少女が訊いてきた。
「あれ?」
「手帳です」
「ああ」笹垣は彼女の目的を理解した。思わず頬が緩む。「はい、どうぞ」警察手帳を取り出し、写真の貼ってある身分証明の頁を広げた。
彼女は写真と笹垣の顔を見比べた後、「どうぞ上がってください」といってドアをさらに大きく開けた。笹垣は少し驚いた。
「いや、おっちゃんらはここでええよ」
すると彼女はかぶりを振った。
「そんなところで待ってられたら、近所の人から変に思われますから」
笹垣はまた古賀と顔を見合わせた。苦笑したいところだったが我慢した。
失礼します、といいながら笹垣は部屋に上がった。外観から予想したとおり、家族で住むには狭い間取りだった。入ってすぐのところが四畳半ほどの板の間で、小さな流し台がついている。奥は和室で、広さはせいぜい六畳というところだろう。
板の間には粗末なテーブルと椅子が置かれていた。少女に勧められ、二人はそこに座った。椅子は二つしかなかった。少女は母親と二人暮らしらしい。テーブルにはピンクと白のチェック柄のカバーがかけられていた。ビニール製で、端に煙草の焦げ跡がついていた。
少女は和室で、押入にもたれるようにして座り、本を読み始めた。背表紙にラベルが貼ってある。図書館で借りたものらしい。
「何を読んでるの?」と古賀が話しかけた。
少女は黙って本の表紙を見せた。古賀は顔を近づけてそれを見て、へえ、と感心したような声を出した。「すごいものを読んでるんやなあ」
「何や?」と笹垣は古賀に訊いた。
「『風と共に去りぬ』です」
へええ、と今度は笹垣が驚く番だった。
「あれは映画で見たけどな」
「僕も見ました。いい映画です。けど、原作を読もうと思たことはないなあ」
「最近は俺も本を読まんようになったわ」
「僕もです。『あしたのジョー』が終わってしもたから、マンガもめったに読まんようになりました」
「そうか。とうとうジョーも終わったか」
「終わりました。この五月に。『巨人の星』とジョーが終わったら、もう読むものがありません」
「よかったやないか。ええ大人がマンガを読んどる姿は、格好のええもんやない」
「それはまあそうですけど」
笹垣たちが話している間も、少女は顔を上げることなく、本を読み続けていた。馬鹿な大人がくだらない無駄話で時間を潰しているとでも思っているのかもしれない。
同様のことを古賀も感じたのか、以後は無口になった。手持ち無沙汰《ぶさた》そうにテーブルを指先でこつこつとつついた。しかし、不快そうに顔を上げた少女の視線を受け、それも止めざるをえなくなった。
笹垣はさりげなく家の中を見回した。必要最小限の家具や生活必需品があるだけで、贅沢品と呼べそうなものは一切ない。勉強机も本棚もない。辛うじて窓際にテレビが置いてあったが、室内アンテナを立てる方式のひどい旧型だった。たぶん白黒だろうと彼は想像した。スイッチを入れても、画面が出るまでにずいぶんと待たされるに違いない。そして映った映像には、見苦しい横縞が何本も入っていることだろう。
物が少ないだけではない。女の子が住んでいるというのに、明るく華やいだ雰囲気がまるでなかった。部屋全体が暗く感じられるのは、天井の蛍光灯が古くなっているせいだけではなさそうだった。
笹垣のすぐそばに、段ボール箱が二つ積まれていた。彼は指先で蓋《ふた》を開け、中を覗いてみた。ゴムで出来たカエルの玩具《おもちゃ》がぎっしりと入っていた。空気を送ってやると、ぴょんと跳《は》ねる仕掛けだ。祭りの時などに夜店で売っている。西本文代の内職らしい。
「お嬢さん、お名前は?」笹垣は少女に訊いた。いつもなら、お嬢ちゃん、と呼びかけるところだったが、彼女に対してはふさわしくないような気がした。
彼女は本に目を落としたまま答えた。「西本ユキホです」
「ユキホちゃん。ええと、どういう字を書くのかな」
「降る雪に、稲穂の穂です」
「ははあ、それで雪穂ちゃんか。ええ名前やな」古賀に同意を求めた。
そうですね、と古賀も頷く。少女は無反応だ。
「雪穂ちゃん、質屋の『きりはら』という店、知ってるか」笹垣は訊いてみた。
雪穂はすぐには答えなかった。唇を舐めてから、小さく頷いた。「母が時々行きます」
「うん。そうらしいね。あの店のおっちゃんと会《お》うたことはあるか」
「あります」
「この家に来たことは?」
すると雪穂は首を傾げ、「あるみたいです」と答えた。
「雪穂ちゃんがいる時に来たことはないの?」
「あったかもしれません。でも、覚えてません」
「何しに来たんやろ」
「知りません」
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