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双语阅读:【日本经典小说连载】东京塔(188)

时间:2012-07-25 10:34:26  来源:可可日语  作者:ookami

东京塔这部小说从“我”一点点长大,一直写到“我”目送着母亲因病去世,各种生活细节每每令人感同身受,因而赚取了读者大把的眼泪,也当之无愧地成了哭泣小说的首席代表。

「ごちそうさま。行ってきます」
仕事道具と教習所の教材とバイクのヘルメットを抱えて家を出る。
「今日は遅くなるかね?」
いつも出掛けには夕飯の都合をオカンは聞いた。
同居を始めてしばらくは、お互い照れながらもボクたちはこうした風景を楽しんだ。年老いた母親と三十を過ぎた独身の息子が古い雑居ビルの小部屋ではにかみながら暮らしているその様子は、端から見れば薄気味の悪いものだったかもしれない。
それでもボクたちはそうすることで、置き忘れたなにか、思い残したなにかを一枚ずつ埋めていたような気がする。
オカンは通院しながらも積極的に東京の生活に馴染もうとした。ハンドバッグの中にも電車の路線図を入れ、新宿へ渋谷へもひとりでいけるようになった。バスの使い方が憶え、区民報を隈なく読み、図書館や地域のバザーも利用しているようだった。
寝たきり老人の訪問介護のボランティアをしたいというので、その方法についてふたりで色々と調べて歩いた。
「自分が老人やのにから、できるんかね?」
「話を聞いてね、させてもらえるかどうかはわからんけど、まだ身体も働くうちはなんか人の役に立たんといけんがねぇ……」
「他のボランティアも色々あるやろ」
「年取ってひとりで住んどる人やら、寝たきりの人の、お弁当を作ってやりたいんやけどねぇ……」
そんな話をしている時のオカンの横顔は、どこかで筑豊のばあちゃんのことを思い出しているようだった。
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オカンとボク。親と子。その関係と立場が少しずつ変っていく中で、オカンのことがひとりの人間として見える瞬間が時々起きる。母親という絶対的なェールを外したところにある、ひとりの人としての表情。つまずいてきたもの、思い残してきたもの。完全ではない人間の溜息にふと気付くことがあった。
ボクが十五歳の時に家を出て、またオカンと暮らし始めるまでの十五年間。思春期の時期と二十代のすべて。息子の最もややこしい時代をオカンは身近で見ることはなかったし、ボクも見せずに済んだ。親子がよくも悪くも一番会話を交わすその時期がすっぽり抜けていた分、ボクたちにはまだ話すことがたくさんあったし、関係が変化したことで時には友達に話すようにオカンのことも聞けた。
えのもとや彼女と一緒に近所の居酒屋に行き、オカンに酒を勧(すす)めながら色んな話を聞きだした。子供の頃、学生時代の話。オトンとの馴れ始め。友達にするようにどんどん飲ませながら、色んなことを白状させた。

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