【双语阅读】【白夜行】第十五回
吉田ハイツは田川不動産の店から歩いて十分ほどのところにあった。田川敏夫は西本雪穂の細い後ろ姿を見ながら、雑な舗装のなされた狭い道を歩いた。雪穂はランドセル姿ではなく、赤いビニール製の手提げ鞄《かばん》を持っていた。
何かの拍子に、彼女の身体から鈴の音がちりんちりんと鳴った。何の鈴だろうと田川は目を凝らしたが、外からはわからなかった。
よく見ると彼女の身なりも、決して恵まれた子供のものではなかった。運動靴の底はすり減っているし、カーディガンは毛玉だらけで、おまけにところどころほつれている。チェック柄のスカートも、生地がずいぶんとくたびれて見えた。
それでもなぜかこの娘の身体からは、田川がこれまでにあまり接したことのない上品な雰囲気が発せられていた。どういうことだろうと彼は不思議な気分になった。彼は雪穂の母親をよく知っている。西本文代は陰気で、目立たない女だった。おまけに、このあたりに住む人間たちと同様の、野卑な思いを内に秘めた目をしていた。あの母親と寝食を共にしていて、こんなふうに育つというのは、ちょっとした驚きだった。
「小学校はどこ?」田川は後ろから尋ねた。
「大江小学校です」雪穂は足を止めず、顔を少し捻って答えた。
「大江? へええ……」
やはりそうなのか、と彼は思った。大江小学校は、この地区の殆どの子供たちが通う公立小学校だ。毎年何人かが万引きで捕まり、何人かが親の夜逃げで行方不明になるという小学校だった。午後に前を通ると給食の残飯の臭いがし、下校時刻になると、子供たちの小遣いを狙《ねら》った胡散臭《うさんくさ》い男たちがどこからか自転車を引いて現れる、そういう学校だ。もっとも大江小学校の子供たちは、そんなテキ屋に引っかかるほど甘くはない。
田川は、西本雪穂の雰囲気から、あんな学校に通っているとはとても思えず、学校はどこかと尋ねたのだった。しかし考えてみれば、彼女の家庭の経済事情では、私立に通える余裕などあるはずがなかった。
学校では、さぞかし浮いた存在なのだろうと彼は想像した。
吉田ハイツに着くと、田川は一〇三号室のドアの前に立ち、一応ノックしてみた。さらに、「西本さん」と呼びかけてみた。だが反応はなかった。
「おかあさんは、まだ帰ってないみたいやね」雪穂のほうを振り返って彼はいった。
彼女は小さく頷いた。また、ちりん、と鈴の音がした。
田川は鍵穴に合鍵を差し込み、右に捻った。カチリと錠の外れる音がした。
奇妙な感覚が彼を襲ったのは、その瞬間だった。不吉な予感といえるものが胸中をかすめた。しかしそのまま彼はドアのノブを回し、手前に引いた。
部屋に一歩足を踏み入れた田川の目が、奥の和室で寝ている女の姿を捉《とら》えた。女は薄い黄色のセーターにジーンズという出で立ちで、畳の上に横たわっていた。顔はよくわからない。だが西本文代に間違いなさそうだった。
なんだ、いるじゃないか――そう思うと同時に、彼は異様な臭気を感じた。
「ガスやっ。あぶないっ」
後から入ってこようとする雪穂を手で制し、自分の鼻と口を押さえた。そしてすぐ横の調理台に目を向けた。ガスレンジの上に鍋が置かれ、ツマミが捻られている。しかしレンジから火は出ていなかった。
田川は息を止めたままガスの元栓を閉め、調理台の上の窓を開け放った。さらに奥の部屋へ向かった。卓袱台《ちゃぶだい》の横で倒れている文代を横目で見ながら窓を開けると、顔を外に出して大きく深呼吸した。頭の奥が痺《しび》れるような感覚があった。
彼は西本文代のほうを振り向いた。文代の顔は、薄い青紫色に見えた。肌に全く生気が感じられなかった。手遅れだ、と彼は直感的に思った。
部屋の隅に黒い電話機が置いてあった。彼は受話器を取ると、ダイヤルに指をかけた。が、その瞬間に迷った。
119か、いや、やっぱり110にすべきなのかな――。
彼は混乱していた。これまで、病死した祖父以外に死体を見たことはなかった。
1、1と回した後、迷いつつも0の穴に人差し指を入れた。その時だった。
「死んでるんですか」玄関のほうから声がした。
見ると、西本雪穂が沓脱ぎに立ったままだった。玄関のドアが開けっ放しになっており、逆光で彼女の表情はよくわからない。
「死んでるの?」と彼女はもう一度訊いた。泣き声になっていた。
「まだわかれへん」田川は指を0から9に移動させ、ダイヤルを回した。
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