【双语阅读】【白夜行】第二十回
国語担当の女性教師は、教科書と黒板以外には目を向けまいとしていた。機械的に授業を進めながら、この地獄の四十五分間が早く過ぎ去ってくれることだけを祈っているように見えた。生徒に本を朗読させることも、名指しして質問することもしなかった。
大江中学校三年八組の教室内は、前後二つの集団に分かれていた。多少なりとも授業を聞く気のある者は、教室の前半分に座っている。全くその気のない者たちは、後ろ半分のスペースを使って、好き勝手なことをしていた。トランプや花札で遊んでいる者、大声で雑談している者、昼寝をしている者などいろいろだ。
以前はそうした授業妨害者たちに向かって注意を続けていた教師たちも、一か月、二か月と経つうちに何もいわなくなってしまった。もちろんその背景には、教師たち自身が何らかの被害に遭っているという事情があった。ある英語教脚は授業中にマンガを読んでいた生徒の手からそのマンガ本を取り上げ、それで頭を殴って叱りつけたところ、その数日後に何者かに襲われ、肋骨を二本折られた。報復に違いなかったが、叱られた生徒にはアリバイがあった。また数学担当の若い女性教師は、黒板のチョーク置きにずらりと並べてあるものを見て悲鳴をあげた。そこに並んでいたのは精液の入ったコンドームだった。彼女はその少し前に、不良生徒たちを非難する言葉を吐いていたのだ。妊娠中の彼女は、ショックのあまり流産しそうになった。その直後から彼女は休職している。たぶん今の三年生が卒業するまでは、現場に戻ってこないと思われた。
秋吉雄一は、教室のほぼ真ん中の席に座っていた。つまりその気になれば授業を聞くこともできるし、簡単に妨害組にも加われるという位置だ。その時の気分によって立場を変えられるコウモリのようなポジションを、彼は気に入っていた。
牟田《むた》俊之《としゆき》が入ってきたのは、国語の授業が半分近く終わった頃だった。がらりと戸を開けると、誰の目を気にした様子もなく、悠然とした態度で、いつもの自分の席まで歩いていった。彼の席は窓際の一番後ろだ。国語教師は何かいいたそうな顔をして彼の動きを目で追っていたが、彼が椅子に座るのを見て、結局そのまま授業の続きを始めた。
牟田は机の上に両足をのせると、鞄から雑誌を取り出した。俗にエロ雑誌と呼ばれるものだった。おい牟田、こんなところでせんずりかくなよ、と仲間の一人がいった。牟田は岩のような顔に、不気味な笑いを浮かべた。
国語の授業が終わると、雄一は鞄の中から大きい封筒を取り出し、牟田に近づいていった。牟田は両手をポケットに突っ込み、机の上で胡座をかいていた。背中を雄一のほうに向けているので表情は見えない。だが一緒にいる仲間たちの笑い顔から推測すると、機嫌は悪くなさそうだった。彼等は最近ブームになっているテレビゲームのことを話していた。ブロック崩しという言葉が耳に入った。たぶん今日も途中で学校を抜け出して、ゲームセンターに直行するつもりなのだろう。
牟田の向かいにいる男子が雄一を見た。その目の動きにつられたように牟田も振り返った。眉を剃った跡が青い。ごつごつした顔面の窪《くぼ》みの奥に、小さいが鋭い目があった。
「これ」といって雄一は封筒を差し出した。
「なんや」と牟田は訊いた。低い声だった。息に煙草の臭いが混じっている。
「昨日、清華に行って撮ってきた」
これで封筒の中身に察しがついたらしく、牟田の顔から警戒の色が消えた。封筒を雄一の手から奪い取り、中を覗き込んだ。
封筒の中身は唐沢雪穂の写真だった。今朝、まだ暗いうちに早起きして、焼き付けをしてきたのだ。雄一としては自信作だった。白黒写真ではあるが、肌や髪の色を感じさせる出来になったと思っている。
舌なめずりしそうな顔つきで封筒の中を見ていた牟田は、雄一を見ると片方の頬だけに不気味な笑いを浮かべた。「なかなかええやんけ」
「そうやろ? 結構苦労したで」雄一はいった。顧客が満足してくれた様子なので、内心ほっとしていた。
「けど、数が少ないやないか。たったの三枚しかあれへんのか」
「とりあえず気に入ってもらえそうなのを持ってきただけや」
「あと何枚ある?」
「よさそうなのは五、六枚」
「よし、明日それを全部持ってこい」そういうと牟田は封筒を自分の脇に置いた。雄一に返す気はないようだった。
「一枚三百円やから、三枚で九百円」雄一は封筒を指差していった。
牟田は眉間に皺を寄せ、斜め下から舐《な》めるように雄一の顔を睨んだ。そんなふうにすると、右目の下にある傷痕が凄《すご》みを出した。
「金は写真が全部揃ってから払《はろ》たる。それで文句ないやろ」
文句があるなら拳《こぶし》で聞いてやろうかという口振りだった。無論雄一に文句をいう気はなかった。ええよ、といってその場を立ち去ることにした。
雄一が歩きかけると、「おい、ちょっと待てや」といって牟田が呼び止めた。
「秋吉、おまえフジムラミヤコって知ってるか」
「フジムラ?」雄一はかぶりを振った。「いや、知らんけど」
「やっぱり清華の三年や。唐沢とは別のクラスらしいけどな」
「知らん」雄一はもう一度首を振った。
「そいつの写真も撮ってきてくれ。同じ値段で買《こ》うたる」
「けど、顔も知らんのに」
「バイオリンや」
「バイオリン?」
「その女は、放課後いつも音楽室でバイオリンを弾いてる。見たらわかる」
「音楽室の中なんか、見えるのかな」
「そんなもん、自分の目でたしかめたらええやんけ」そういうと牟田は、もう用はなくなったといわんばかりに仲間たちのほうに顔を戻した。
ここで余計なことをいうと牟田がヒステリーを起こすことを知っている雄一は、黙ってそこを離れた。
牟田が、上品で金持ちの娘が通うことで有名な清華女子学園中等部の女子生徒に目をつけ始めたのは、一学期の半ばだった。どうやら彼等不良グループの間で、清華の女子を追い回すことが流行《はや》っているらしい。もっとも、実際にお嬢様をものにした者がいるのかどうかはさだかではない。
目当ての女子生徒の写真を撮ることについては、雄一のほうから牟田に話を持ちかけた。彼等が彼女たちの写真を欲しがっているという話を耳にしたからだ。趣味の写真を続けるには小遣いが足りないという、雄一なりの事情もあった。
牟田が最初に依頼してきたのが唐沢雪穂の写真だった。雄一の感触では、牟田は本気で雪穂のことが気に入っているようだった。その証拠に、少々出来のよくない写真でも、彼は決していらないとはいわなかった。
それだけにフジムラミヤコという別の名前が出てきたのは意外だった。唐沢雪穂はとてもものにできそうにないので、ほかの女にも目をつけ始めたのかもしれないと思った。いずれにしても雄一にとっては関係のないことだった。
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