【双语阅读】【白夜行】第三回
「何に使うとか、そういうことは桐原さんはお話しにならなかったですか」
「ええ。そんなことは何もおっしゃってません」
「その百万円を、桐原さんはどこにしまわれました」
「さあ……。当行の袋に入れておられたことは、何となく覚えているんですけど」彼女は困ったように首を傾げた。
「桐原さんがそんなふうに突然定期預金を解約して、百万単位の金を引き出すということは、これまでにも何度かあったんですか」
「私の知っているかぎりでは、初めてです。私は去年の末頃から、桐原さんの定期預金のお世話をさせていただいているんですけど」
「金を引き出す時の桐原さんの様子はどうでした。残念そうでしたか、それとも楽しそうでしたか」
さあ、と彼女はまた首を傾げた。「さほど残念そうには見えませんでした。この分はまた近いうちに預金するから、というようなことをおっしゃってました」
「近いうちに……ねえ」
これらの内容を捜査本部に報告した後、笹垣と古賀は『きりはら』に向かった。桐原洋介が引き出した金について何か心当たりがないかどうかを、弥生子や松浦に確かめるためだった。ところが家の近くまで行ったところで二人は足を止めた。『きりはら』の前に喪服を着た人々が集まっていた。
「そうか、今日は葬式やったか」
「うっかりしてましたね。そういえば、今朝、そんな話を聞きました」
笹垣は古賀と共に、少し離れたところから様子を窺《うかが》った。ちょうど出棺が始まるところのようだった。家の前まで霊柩車が移動してきた。
店のドアは開放されていた。そこからまず、桐原弥生子が現れた。前に笹垣が会った時よりも顔色は悪く、身体も小さくなったように見えた。だが一方で、妖艶《ようえん》さは増しているように感じられた。喪服の持つ不思議な魅力のせいかもしれなかった。
弥生子は明らかに着物を着慣れていた。歩き方さえ、自分が魅力的に見えるよう計算されているようだった。悲嘆にくれる美しく若き未亡人を演じているとすれば完璧だ、と笹垣は少しひねくれた感想を抱いた。彼女がかつてキタ新地でホステスをしていたということは、すでに調査済みだ。
彼女の後ろから、遺影を入れた額を抱えて、桐原洋介の息子が出てきた。亮司《りょうじ》という名前は、すでに笹垣の頭に入っている。まだ言葉を交わしたことはなかった。
桐原亮司は今日もまた無表情だった。暗く沈んだ瞳には、感情らしきものが何も浮かんでいなかった。そんな作りもののような目を、前を行く母親の足元あたりに向けていた。
夜になってから、笹垣と古賀は再び『きりはら』に出向いた。前に来た時と同様、シャッターは半分開いていた。だが内側のドアは鍵がかかっていて開かなかった。ドアのすぐ横に押しボタンがあったので、笹垣はそれを押した。中でブザーの鳴っているのが聞こえた。
「どこかに出かけてるんですかね」古賀が訊いた。
「出かけたのやったら、シャッターを下ろしていくやろ」
やがて鍵の外れる音がした。ドアが二十センチほど開いて、隙間《すきま》から松浦が顔を覗かせた。
「あっ、刑事さん」松浦は少し驚いた顔をした。
「ちょっとお尋ねしたいことがありましてね。今、よろしいですか」
「ええと……どうかな。奥さんに訊いてきますから、少し待っててください」松浦はそういうとドアを閉めた。
笹垣は古賀と顔を見合わせた。古賀は首を傾げた。
再びドアが開いた。「いいそうです。どうぞ」
失礼します、といって笹垣は店内に入った。線香の匂いがこもっている。
「お葬式は問題なく終わりましたか」笹垣は訊いてみた。この男が棺を担いでいたのを覚えている。
「ええ、なんとか。ちょっと疲れましたけど」松浦はそういって髪を撫《な》でつけた。喪服のままだが、ネクタイはつけていなかった。シャツの第一と第二ボタンが外れている。
カウンターの後ろの襖が聞き、弥生子が出てきた。彼女は喪服から、紺色のワンピースに着替えていた。アップにしていた髪も、下ろしてあった。
「お疲れのところ申し訳ありません」笹垣は頭を下げた。
いえ、と彼女は小さく首を振った。「何かわかったんでしょうか」
「いろいろと情報を集めてるところです。それで、一つ気になることが出てきましたので、それについてお尋ねしに来たわけですが」笹垣は彼女が出てきた襖を指した。「その前に線香をあげさせていただけませんか。仏さんに一言、御挨拶しておきたいんですわ」
弥生子は一瞬不意をつかれたような顔をした。彼女はまず松浦のほうに視線を向け、それから笹垣に目を戻した。
「ええ、あの、構いませんけど」
「すみません。そしたら、ちょっとお邪魔します」
笹垣はカウンターの横の沓脱ぎで靴を脱いだ。上がり框《かまち》をまたぐ時、そばの扉に目が向いた。階段を隠している扉だ。その把手《とって》のそばに、掛け金錠が下ろしてあった。これでは階段側から開けられない。
「変なこと訊きますけど、この錠は何のためのものですか」
「ああ、それは」と弥生子が答えた。「夜中に泥棒が二階から入ってくるのを防ぐためのものです」
「二階から?」
「このあたりは家が密集してるから、泥棒が二階から入ってくるおそれが結構あるんです。実際、近所の時計屋さんも、そんなふうにして入られました。それで、もしそういうことになったとしても下には来られないように、主人がその錠を取り付けたんです」
「泥棒に下に来られたらまずいわけですか」
「金庫が下にありますから」松浦が後ろから答えた。「お客さんからの預かりものも、全部下で保管してますし」
「すると、夜は上には誰もおられないわけですか」
「そうです。息子も一階で寝させてます」
「なるほど」笹垣は顎をこすりながら頷いた。「錠が付いてる理由はわかりましたけど、今はなぜ掛けてあるんですか。昼間、掛けることもあるんですか」
「ああ、それは」弥生子は笹垣の横に来て、その錠を外した。「癖になっているので、つい掛けてしまっただけです」
「ははあ、そうですか」
つまり上には誰もいないということかなと笹垣は思った。
襖を開けると六畳の和室があった。その奥にさらに部屋があるようだが、やはり襖で仕切られて見えなかった。夫婦が寝室にしていた部屋だろうと笹垣は想像した。弥生子の話では、亮司も一緒に寝るらしい。ならば夫婦生活はどうしていたのかと気になった。
仏壇は西の壁に寄せて置いてあった。傍らの小さな額には、桐原洋介が背広姿で微笑《ほほえ》んでいる写真が入っていた。少し若い時の写真らしかった。笹垣は線香をあげ、十秒ほど手を合わせて瞑目《めいもく》した。
弥生子が湯飲みに茶を入れて運んできた。笹垣は正座したまま一礼し、茶碗に手を伸ばした。古賀も同じようにした。
その後何か事件について思い出したことはないか、と笹垣は弥生子に尋ねてみた。彼女は即座に首を横に振った。店で椅子に座っている松浦も、何もいわなかった。
笹垣は徐《おもむろ》に、桐原洋介が百万円を銀行から引き出していたことを話した。これには弥生子も松浦も、驚いた顔をした。
「百万円やなんて、そんな話、主人から何も聞いてません」
「私も心当たりはありませんなあ」松浦もいった。「社長はワンマンでしたけど、仕事でそれほどの大金を扱うとなると、一言ぐらいは私にも相談があるはずですけど」
「御主人は何か金のかかる道楽はしておられませんでしたか。たとえば博打とか」
「あの人は賭事《かけごと》は一切しませんでした。趣味らしいものも、特になかったと思います」
「商売だけが趣味みたいなお人でしたわ」松浦が横からいった。
「そうすると、ええと」笹垣は少し迷ってから訊いた。「あっちのほうはどうでした」
「あっちのほう?」弥生子が眉《まゆ》を寄せた。
「つまりその、女性関係ですけど」
ああ、と彼女は頷いた。特に神経を刺激されたようには見えなかった。
「外に女がおったとは思えません。あの人は、そういうことのできる人やなかったんです」断定的にいった。
「御主人を信用してはるわけですな」
「信用というか……」弥生子は語尾を濁し、そのまま俯いた。
その後いくつか質問してから、笹垣たちは腰を上げた。収穫があったとはとてもいえなかった。
靴を履く時、沓脱ぎの端に少し汚れた運動靴が置いてあるのが目に留まった。亮司のものらしい。彼は二階にいるのだ。
掛け金錠のついた扉を見て、少年は上で何をしているのだろうと笹垣は思った。
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