【双语阅读】【白夜行】第十一回
『菊や』は入り口に白木の格子戸が入った小奇麗なうどん屋だった。紺色の暖簾《のれん》がかかっており、店名が白抜き文字で書かれている。わりと繁盛しているらしく、昼前から客が入り始め、午後一時を過ぎても、客足の途絶える気配がなかった。
一時半になって、店から少し離れたところに白のライトバンが止まった。ボディの横に『アゲハ商事』とゴシック体でペイントされている。
運転席から一人の男が降りてきた。灰色のジャンパーを羽織った、ずんぐりした体形の男だった。年齢は四十前後に見える。ジャンパーの下はワイシャツにネクタイという格好だった。男はやや急ぎ足で、『菊や』に入っていった。
「正確なもんやな。ほんまに一時半ちょうどに現れたで」腕時計を見ながら笹垣は感心していった。『菊や』の向かい側にある喫茶店の中である。ガラス越しに外を眺めることができる。
「ついでにいうたら、中で食べてるのは天麩羅《てんぶら》うどんですわ」こういったのは笹垣の斜め向かいに座っている金村刑事だった。笑うと、前歯の一本が欠けているのがよくわかる。
「天麩羅うどん? ほんまか」
「賭《か》けてもええです。何遍か、一緒に店に入って目撃しました。寺崎が注文するのは、いつも天麩羅うどんです」
「ふうん。よう飽きんこっちゃな」笹垣は『菊や』に目を戻す。うどんの話をしたせいで、空腹を覚えていた。
西本文代のアリバイは確認されていたが、彼女への疑いが完全に晴れたわけではなかった。桐原洋介が最後に会ったのが彼女だということが、捜査員たちの心に引っかかっていた。
彼女が桐原殺しに絡んでいたとすると、まず考えられるのは共犯者の存在である。未亡人の文代には若い情夫がいるのではないか――その推理に基づいて捜査を続けていた刑事たちの網にかかったのが寺崎忠夫であった。
寺崎は化粧品や美容器具、シャンプー、洗剤などの卸売りで生計を立てていた。小売店に卸すだけでなく、客から直接注文も受け、自ら配達するということもしている。『アゲハ商事』という社名を掲げてはいるが、ほかに従業員はいなかった。
刑事たちが寺崎に目をつけたきっかけは、西本文代の住む吉田ハイツ周辺で聞いた話だった。白いライトバンに乗ってきた男が文代の部屋に入るのを、近所の主婦が何度か目撃していた。ライトバンにはどこかの会社名が入っていたようだが、そこまではよく見ていないと主婦はいった。
刑事たちは吉田ハイツの近くで張り込みを続けた。だが問題のライトバンは一向に現れなかった。やがて、全く別のところでそれらしい車が見つかった。文代が働く『菊や』へ毎日のように昼飯を食べに来る男が、白いライトバンに乗っていた。
『アゲハ商事』という社名から、すぐに男の身元は判明した。
「あっ、出てきました」古賀がいった。『菊や』から寺崎が出てくるのが見えた。
だが寺崎はすぐには車に戻らず、店の前で佇《たたず》んでいる。これもまた、金村刑事たちの報告通りだった。
程なく、今度は店から文代が出てきた。白い上っ張りを着ている。
寺崎と少し言葉を交わした後、文代は店に入った。寺崎は車に向かって歩きだした。どちらも、さほど人目を気にしているようには見えない。
「よし、行こか」吸っていたピースの火を灰皿の中でもみ消し、笹垣は腰を上げた。
寺崎が車のドアを開けたところで、古賀が声をかけた。寺崎は驚いたように目を丸くした。その後、笹垣や金村のほうも見て、表情を固くした。
少し話を聞きたいという要求に、寺崎は素直に従った。どこかの店に入ったほうがいいかと訊いてみると、車の中がいいと彼はいった。それで小さなライトバンに四人で乗り込んだ。運転席に寺崎、助手席に笹垣、後部席に古賀と金村という配置だ。
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