悠哉日本行:古色古香 矢先神社的宁静午后
浅草七福神巡りもいよいよ大詰めです。九つ目に訪れる矢先神社周辺は、今でこそ閑静なたたずまいを見せていますが、矢先神社の建立当時は、武道とエンターテイメントの舞台として大変にぎわう場所だったのだそうです。
浅草“七福神”巡拜终于接近尾声了。我们最后拜访的是矢先神社。矢先神社如今展现给我们的是娴静优雅的姿态,但据说神社建立伊始,却是武士道和演艺的舞台,是一个非常热闹的地方。
福禄寿神正向来此祈祷健康长寿的人们微笑呢
矢先稲荷神社は、寛永19年(1642年)、江戸幕府第三代将軍徳川家光が武術興隆のために、既に京都にあった三十三間堂を模したお堂を、江戸は浅草の地にも建立したのが始まりです。
矢先稻荷神社是江户幕府第三代将军德川家光为了振兴武术,于宽永19年(1642年)建立的。他模仿京都三十三间堂,在江户的浅草建造神殿,这就是矢先稻荷神社的起源。
当時、京都の三十三間堂では「通し矢」と呼ばれる弓の技を競う競技が大変流行していました。今でも一月には「通し矢」の名残として「大的大会」が行われ、季節の風物詩となっています。江戸三十三間堂でも「通し矢」を盛んに行って弓術江戸一などを決定し、大いに賑わっていました。
当时,在京都的三十三间堂非常流行一种叫做“通し矢”的射箭比武大赛。作为“通し矢”的遗留节目,现在每年的一月也要举行“大靶大会”,已经成为一道季节的风景。射箭比武在江户的三十三间堂也流行开来,为评选“江户射箭第一”,甚是热闹了一阵。
この「通し矢」の矢場の先にあったので名づけられたのが、堂の守護神として勧請した稲荷大明神を祀っていた「矢先稲荷」になります。残念ながら、江戸三十三間堂自体は元禄江戸大火で消失し、その後移転、明治に入ると廃されてしまいました。江戸三十三間堂が移転させられる際、地元の人々が矢先稲荷だけは同じ浅草の地に再建したいと望んだそうです。
由于坐落于这个比赛场地之前,所以就取名为“矢先”,而且“稻荷大明神”被接到这里作为殿堂的守护神,所以神社便有了“矢先稻荷神社”的名字。但令人遗憾的是,江户的三十三间堂在元禄江户大火中焚毁,后来迁移,进入明治时期后被废止。江户的三十三间堂被迁移的时候,据说当地人希望“矢先稲荷”能在浅草重建。
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