【双语阅读】【白夜行】第一回
相手は顔をしかめ、手を振った。若手刑事は隣で苦笑している。
「そうですか。ちょっとはのんびりしたい、いうてた矢先やもんなあ。今は中で何をしてます?」
「松野先生がお着きになったところや」
「あ、なるほど」
「ほな、俺らはちょっと回って来るから」
「ああ、よろしく」二人が出ていくのを見送った。おそらく聞き込みを命じられたのだろう。
笹垣は手袋をはめると、ゆっくりとドアを開けた。室内は十五畳ほどの広さがあった。窓ガラスから入る太陽光のおかげで、エレベータホールほどには暗くない。
窓と反対側の壁際に、捜査員たちが集まっていた。知らない顔が混じっているが、たぶん所轄の西布施警察署の者だろう。あとは見飽きた顔ばかりだ。中でも最も付き合いの深い男が、最初に笹垣のほうを見た。班長の中塚だった。髪を五分刈りにし、レンズの上半分が薄い紫の金縁眼鏡をかけている。眉間《みけん》の皺《しわ》は、笑っている時でも消えない。
中塚は「御苦労さん」とも「遅かったな」ともいわず、こっちへ来いというように顎《あご》を小さく動かした。笹垣は近づいていった。
この部屋には殆ど家具らしきものがなかったが、黒い合成皮革の長椅子が一つ、壁際に置かれていた。詰めれば大人三人が座れそうな大きさだ。
死体はその上に横たわっていた。男の死体だった。
近畿医科大の松野|秀臣《ひでおみ》教授が、その死体を調べている最中だった。松野教授は大阪府監察医を務めて二十年以上になる。
首を伸ばし、笹垣は死体を眺めた。
死体の年齢は四十代半ばから五十歳過ぎに見えた。身長は百七十センチ足らずというところ。身体《からだ》つきは、その身長にしては少し太めという感じだった。茶色の上着を着ているが、ネクタイは締めていない。衣類はいずれも高級品に見えた。ただし、胸に直径十センチほどの赤黒い血痕があった。ほかにもいくつか傷があるようだが、いずれも夥《おびただ》しいというほどの出血は見られなかった。
笹垣が見たかぎりでは、誰《だれ》かと争った様子はない。着衣は乱れていないし、オールバックに固めた髪も、殆ど崩れていなかった。
小柄な松野教授が立ち上がり、捜査員たちのほうを向いた。
「他殺だね。間違いない」教授は断定的にいった。「刺傷が五箇所。胸に二箇所、肩に三箇所。致命傷となったのは、たぶん左胸下部の刺傷だと思われます。胸骨より数センチ左です。肋骨《ろっこつ》の間を通過した凶器が、一気に心臓に達したと考えられます」
「即死ですか」中塚が訊《き》いた。
「一分以内で死んだんじゃないかな。冠状動脈からの出血が心臓を圧迫して、心タンポナーデを起こしたと思うからね」
「犯人への返り血はありそうですか」
「いや、たぶんさほどのものではないと思う」
「凶器は?」
教授は下唇を突き出し、一度小さく首を捻《ひね》ってから口を開いた。
「細くて鋭利な刃物だね。一般の果物ナイフより、もう少し細いかもしれない。とにかく、包丁や登山ナイフの類ではないね」
この会話から、凶器がまだ見つかっていないらしいことを笹垣は知った。
「死亡推定時刻は?」この質問は笹垣が投げかけた。
「死後硬直は全身に及んでいるし、死斑の転位も全く認められない。角膜の濁りも強い。十七時間から、あるいは丸一日近く経っているかもしれないな。後は解剖で、どこまで絞れるかだね」
笹垣は自分の時計を見た。午後二時四十分だった。単純に逆算すると、被害者は昨日の午後三時頃から夜十時の間に殺されたということになる。
「そしたら、すぐに解剖に回しましょか」
中塚の意見に、「それがいいだろうね」と松野教授は賛成した。
そこへ若い古賀《こが》刑事が入ってきた。「被害者の奥さんが到着しました」
「ようやく来たか。ほな、先に確認してもらおか。お連れしてくれ」
中塚の指示に古賀は頷《うなず》き、部屋を出ていった。
笹垣はそばにいた後輩の刑事に小声で訊いた。「被害者の身元、わかってるんか?」
後輩は小さく頷いた。
「運転免許証と名刺を持ってました。この近くの質屋の親父です」
「質屋? とられたものは?」
「わかりません。とりあえず財布は見つからんそうです」
物音がして、再び古賀が入ってきた。どうぞこちらへ、と後ろに向かっていっている。刑事たちは死体から二、三歩下がった。
古賀の背後から女が現れた。最初に笹垣の目に飛び込んできたのは、鮮やかなオレンジ色だった。女はオレンジと黒のチェック柄のワンピースを着ていたのだ。しかも踵《かかと》の高さが十センチ近くありそうなハイヒールを履いていた。また、見事にセットされた長い髪は、たった今美容院から帰ってきたかのようだった。
濃い化粧によって強調された大きな目が、壁際の長椅子に向けられた。彼女は両手を口元に持っていき、しゃっくりするような声を発した。そのまま何秒間か身体の動きを停止させた。こういう場合に余計な言葉を発するメリットが何もないことを知っている捜査員たちは、黙ってじっと成りゆきを見ていた。
やがて彼女はゆっくりと死体に近づき始めた。長椅子の手前で足を止め、横たわっている男の顔を見下ろした。彼女の下顎が細かく震えているのが笹垣にもわかった。
「御主人ですか」中塚が尋ねた。
彼女は答えず、両手で自分の頬《ほお》を包んだ。その手を徐々にずらし、顔を覆った。崩れるように膝《ひざ》を折り、床にしゃがみこんだ。芝居じみている、と笹垣は感じた。
号泣する声が、彼女の手の中から聞こえた。
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