双语阅读:【青春小说连载】春の夢(95)
八(2)
エレベーターの中で白い帽子をかぶり直しながら鍋島は言った。それから、あしたの朝九時に、ホテルを出て通りを右に少し行ったところにポストと公衆電話のポケットが並んでいる、そこでドイツ人を待っているようにと付け加えた。
「お前がロビーにふたりを迎えに来たりしたら、他の連中がまた何をいいよるか判らんからなァ……。ここのホテルの連中は、陰険なやつばっかりや」
「事務所にもごたごたがあるみたいですけど、調理部にも意地悪な人がいますか?」
「コックなんて、みんな職人やから、癖の強いのが多いんや。チーフなんかその筆頭や。フランスで十年修業したっちゅう錦の御旗を首にくくりつけて、朝から晩まで怒鳴りちらしとる。自分と一緒にフランスで料理の勉強をしとったやつが、勲四等何とか章いうのをもろたんや。自分が貰われへんかったから、機嫌が悪うて、こないだから手ェ焼いとるんや」
「やっぱり勲章て、そないに欲しいもんですかねェ」
「年取って、もう色気もあかん、金にも不自由せんてな具合になったら、残りは名誉欲だけやからなァ」
そして鍋島はそうたいして気にもしていない顔つきで、
「あの爺さん、俺には特別風当たりが強いんや。料理の真髄はフランスや、ウィンナ?ソーセージの作り方を習うのにわざわざドイツに行って三年もかかったんかっちゅうて、あのシミだらけの顔で自分の自慢話をばっかりしよる」
と言った。エレベーターから出て、厨房(ちゅうぼう)への通用口の扉をあけながら、鍋島は、
「おい、間違うても、こんなホテルに就職しようなんて気ィ起こすなよ」
そう言い残して去って行った。哲之はロビーに戻り、団体のボストンバッグに客室番号の札をつける作業を手伝いながら、ふと死ぬ一カ月ほど前に父が言った言葉を思い出した。人生、先に何が待ち受けているか判るものではないが、勤め人として一生を送るつもりなら、断じて大企業に就職しろ。それが駄目なら役所勤めをしろ。そのどちらにも就職できなかった場合は、どんな会社でもいい、まじめに勤めながら十年くらい時期を待ち、金を貯め、何か商いをするのだ。大会社か役所に勤めたら、絶対に何があっても辞めてはいけない。風は南風ばかりでもなく北風ばかりでもない。いつか必ず自分の方に吹いてくる時がある。やれあの上役がいじめるとか、この仕事に合っていないとか考えて辞めて行くやつがいるが、どこに職場を変えても結局また同じことで悩むように出来ている。そうやって転々と会社を変わり、気がつくとちっぽけな職場のセールスマンになっているのが落ちだ。しまったと思ったときはもう四十も半ばを過ぎ、つぶしがきかなくなっている。けれども焙烙売りも我が商売と言う言葉もある。大会社にも役所にも就職出来なかったら、どんな小さな商売でもいい、一国一城の主になるために準備と勉強をするのだ。ラーメン屋でもいい。屑屋でもいい。小さな畑をこつこつ耕して行くのだ。それが七十年生きて来て、さまざまな人間を見、多くの失敗を重ね続けた俺の、たったひとつ確信を持って言える生き方のコツだ。そう言い終えたあと、息子の掌を両の手で撫でまわしつつ呟いた父の言葉が、哲之の耳に聞こえてきた。
「俺はこんな説教めいたことを言うのは好きやないけど、ちょっと気障な遺言(いげん)やと思うて聞いといてくれ。人間には、勇気はあるけど辛抱が足らんというやつがいてる。希望だけで勇気のないやつがおる。勇気も希望も誰にも負けんくらい持ってるくせに、すぐにあきらめてしまうやつもおる。辛抱ばっかりで人生何にも挑戦せんままに終わってしまうやつも多い。勇気、希望、忍耐。この三つを抱く続けたやつだけが、自分の山を登りきりよる。どれひとつが欠けても事は成就せんぞ。俺は勇気も希望もあったけど、忍耐がなかった。時を待つということが出来んかった。自分の風が吹いて来るまでじっと辛抱するということが出来んかった。この三つを兼ね備えててる人間ほど恐いやつはおらん。こういう人間は、たとえ乞食に成り果てても、病気で死にかけても、必ず這い上がってきよる」
哲之は、父の言ったことは本当だと思った。だがこの陳腐と言えば言える三つの言葉を己に課すことはなんと至難であろう。勇気、勇気、勇気と哲之は心の中で呟いた。希望、希望、希望と呟いてみた。そして小声で、忍耐、忍耐、忍耐と言った。その三つの言葉を何度も何度も自分に聞かせながら、札をつけ終わった重い荷物を持ち、それぞれの客室に運ぶためエレベーターに向かって歩いて行った。大会社も役所も、すでに採用試験は終わり、哲之はつい三日ほど前に、そのどちらからも不採用の通知を受け取っていたのだった。エレベーターの扉が閉まった瞬間(しゅんかん)、彼は島崎課長の勤めるように、このホテルに就職しようと決めた。哲之は、
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