双语阅读:【青春小说连载】春の夢(96)
八(3)
「キンちゃん」
と呼んだ。キンはたちまち眼前に現れた。金は光輝いて、哲之に微小な冷たい目を向けた。キンこそ、三つの言葉の化身(けしん)でなくて何であろうと哲之は思った。だとすれば、キンの背を貰いて柱に深く突き刺さっているあの釘はいったいなんだろう。そう考えていたとき、エレベーターが停まり、一見して、もう老人と呼べる年齢に達していると男と、陽子とおない歳ぐらいの女が入って来た。
「きのうの肉はちょっと固かったなァ」
と男は言った。
「コンソメも塩からったわ」
女がそう応じ返した。春以来、ホテルのページ?ボーイの仕事をつづけて来た哲之には、ふたりが親子ではないことを見抜けるようになっていた。
八時四十五分に、哲之は鍋島に指定された場所へ行った。日曜日なのに一通りは多かった。その人々の群れの中から陽子がわっと驚かすようにして飛び出してきた。
「朝御飯、ちゃんと食べて来た?」
と陽子は訊いた。哲之は陽子の朝の匂いが好きだった。寝ている間に染み出て来て陽子を覆い尽くし、オーデコロンや口紅やらの人工の匂いなど引き飛ばしてしまう体臭は、ときに木犀の花の香りであったり、陽光を吸った藁のそれであったり、女の肉体そのものの匂いであったりした。哲之は、
「言われたとおり、ミルクを沸かして、パンにバターを塗って、チーズも食べて、トマトを一個かじってきたよ」
と答え、陽子の匂いを嗅いだ。
「きのう電話をきったあと、慌てて独和辞典と和独辞典を引っ張り出してきたのよ。それにお父さんにこれを借りてきた」
そうはしゃいだ口調で言って、「簡単なドイツ語会話」と言う題の本を見せた。
「俺、陽子にも逢いたかったし、百ドルのガイド料も欲しかったから、ぼくより京都に詳しい友だちをつれて行くってうっかり口から出まかせを言うたけど、大丈夫か?」
「おととし、友達と京都めぐりをしたから、ほんとに私、京都には詳しいのよ」
九時ちょうどに、ドイツ人の老夫婦はやって来た。ふたりとも茶色いオーバーコートを着て、どちらも形は違っているがお揃いらしいオリーブ色の帽子をかぶっていた。哲之は陽子を指差して「ヨーコ」と言い、次に自分を指差し「テツ」と言った。外人にはテツユキという言葉は覚えにくいだろうと思ったからだ。夫妻はヨーコ、ヨーコと頷きながら、陽子と握手をし、同じようにテツ、テツと繰り返してテツユキとも握手をした。路上にたったまま、陽子は持参した和独辞典のページをくり、ひとつの単語を夫妻に示した。覗き込むと、「電車」と言う言葉だった。夫妻は相談し合っていたが、やがてゆっくりとドイツ語で語りかけてきた。陽子の示した単語たしき言葉に混じって、タクシーと言う言葉が聞き取れた。
「タクシーと電車とどっちが早いかって訊いてるみたいよ」
「そら、電車の方が早いよ。阪急電車で河原町まで出て、そこからタクシーに乗った方は早いし安あがりや。そう教えてあげてくれよ」
「そんなこと喋れる筈がないでしょう」
陽子は辞書の電車と言う単語を指差して、先に立って歩き始めた。切符を買うとき、夫人が大きいな革の財布を哲之に差し出した。必要額だけ抜き出し、切符を買い、河原町行きの特急に乗り込むと、哲之はまず夫妻の席を取って坐らせた。夫妻の後ろの席に並んで坐り、哲之と陽子は「簡単なドイツ語会話」の本を開いた。
「どんなものが観たいのかのかっちゅう会話はないか?」
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