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谈谈关于日语中的寒暄语(中日对照)

时间:2008-01-31 15:03:24  来源:本站原创  作者:Echo

「あいさつ」とは何か?

 日本中の学校で、「オアシス」運動が行われている。「オ」は「おはよう」、
「ア」は「ありがとう、「シ」は「しつれいします」、「ス」は「すみません」と
するのが一般的で、何かとぎすぎすしがちな人間関係を、あいさつによって砂漠の
中のオアシスのように潤そうということに狙いがある。実際、言葉のまったく
分からない外国に行って、心ならずも人にぶつかったとき、相手が何か一言いったと
しても、「気をつけろ」と言ったのか、「すみません」と言ったのか、言葉では
分からない。落ち着いていれば表情や語調で見当はつくのだろうが、こういうときには
動転しやすいので、逆の意味にとりかねない。確かにあいさつは大事であり、よく
言われるように、人間関係の潤滑油ともなる。

 「あいさつ」は漢字では、「挨拶」と書く。「挨」も「拶」も常用漢字には
含まれていないので、普通かなで書かれるが、あまりにも日常的な言葉なので、
漢字で書けなくても読める人は多い。しかし、「挨拶」という漢語を構成する
「挨」も「拶」も、「押す」とか、「(むりやり)進む」という意味なので、
「挨拶」という言葉の意味も、もとは今とは正反対のものだった。「士庶挨拶す」と
いうと、人々が身分の隔てなく押し合いへし合いすることだった。パレードを
見ようと争う群集を考えればよく、とても今のような譲り合いの精神を示す言葉とは
言えなかった。その意味の変化は、禅僧の間でこの言葉が、仏教の教理をめぐって
押し問答する意味に使われたことから始まった。そこから単に「言葉を交わす」と
いう
意味に変化し、今日の意味となった。江戸時代には、さらに「言葉を親しく交わす仲」と
いう意味にも転じ、「あいさつ切る」といえば絶交のことであった。

 現代日本語のあいさつ言葉には、関西起源と思われるものが多い。明治以降、
江戸は東京と名を改め、全国から人が集まるようになったが、やはり圧倒的に
関東近県からの移住者が多かった。その中で、関東以外で最も多かったのは京都からの
移住者であり、皇室の東遷と関係があるようである。いわゆる標準語は、「教養の
ある山の手の江戸の人の言葉」をもとにして作られたのだが、標準語に取り入れられた
「美しゅうございます」のような表現は、本来なら「美しく」のように「く」で
終わるべき形容詞の連用形が「う」に変わる(「ウ音便」)のだから、明らかに
西日本起源である。「おはよう」「おめでとう」「ありがとう」もこれと同様で
ある。いずれも、本来は下に「ございます」をつける。「めでたい」が「たたえたい」、
「ありがたい」が「めったにない」から来ていることはすぐ分かるが、人に
おごられたとき「ありがとう」というのには、「お前のようなけちがそんなこと
するなんて」というひねくれた解釈も可能である。

 日本語のあいさつ言葉には、最後まで言い切らないものが多い。その典型が
「さようなら」であり、本来は「そうであるならば」という接続詞であった。
古語の「さらば」にせよ、親しい仲でいう「じゃあ」にせよ、同じことである。
これは、はっきり別れを持ち出すのを遠慮したともとれ、自分自身がその悲しみに
耐えきれないことを示すともとれる。英語のgood-byeのgoodは"Good morning."などの
ような「良い」という意味ではなくGodの意味であり、「神があなたのそばに
みそなわすように」ということだという。フランス語の「アデュー」やスペイン語の
「アディオス」も「神へ」ということである。"See you again." (英語)、
"Aurevoir."(フランス語)、 "Auf wiedersehen."(ドイツ語)、「再見(ツァイチェン)」
(中国語)はいずれもはっきり再会を望む表現である。面白いのはトルコ語の
"Güre güre."で、これは「笑って、笑って」ということらしい。「こんにちは」
「こんばんは」も、そのあとに続くべき「御機嫌いかがですか」の部分が省略されて
おり、Bonjour(ボンジュール)や好(ニーハオ)のように、相手がうまくいく
ことを直截にのぞむ表現とは異なっている。

 英語圏では、日本人が"Thank you."というべき場面でよく"I'm sorry."と言うのが
不思議がられるらしいが、これは「すみません」の直訳であり、他人に負担を
かけることを申し訳なく思う日本人の心性に由来しているとよく言われる。
「ごちそうさま」というのは「馳走」、つまり客をもてなすために走り回ることで
あり、したがって風呂に入れてもらったときにも使える。どうも日本語のあいさつことばは、
最後まで言い切らなかったり、遠まわしに表現したりして、余韻を残そうとする
傾向が強い。ただ、日本語でも、いつでも「ありがとう=すみません」という
わけではない。人にほめてもらったときは、どう考えても相手に負担をかけた
わけではないので、率直に「ありがとう」と言い、決して「すみません」とは
言わない。

 よく言葉の機能は「伝達」にあると言われる。しかし、あいさつことばは伝達と
いう観点から見ると、まるで無駄な言葉である。「おはよう」なんてお互いに
分かっていることではないだろうか? そのため、あいさつ言葉をできるだけ
少なくする言語も多い。西ニューギニアのモニ族は「ありがとう」も「こんにちは」も
「お気の毒です」も全部「アマカネ」の一語で済ませるという。強いていうなら、
日本語の「どうも」に近いのかも知れない。

 西アフリカのマリのバンバラ族は、「あなたのお父さんはいかがですか」
「元気です。ありがとう」といった会話を、お母さん、奥さん、息子さん、娘さんに
ついても
毎朝繰り返し、韻を踏んだ詩をかけあいで読んでいるように聞えるという。日常顔を
合わせ、
それが彼らにとっては全世界というべき小さな集落で毎朝繰り返しているのである。
と、すれば、あいさつことばの機能は、情報伝達ということよりも、やはり
人間関係の潤滑油ということにあるようだ。

 身近な人間ほど大事にしなければならないのだとすれば、バンバラ族の悠長な
風習も納得できる。あいさつは、人間関係がうまく行っているからするのではなく、
うまく行っていなければなおさらすべきなのである。挨拶をしない若者にはその
ように説得したほうが早いかも知れない。挨拶したからといって、自分が相手の下に
立つ
わけではないと納得したとき、挨拶をしなかった若者も進んで挨拶するように
なるにちがいない。

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