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综合日语阅读:空談/空谈(鲁迅《华盖集续编》)

时间:2011-07-29 15:20:32  来源:新世界论坛  作者:dodofly

鲁迅作品日文版

        

 請願ということを、私はこれまでよいこととは思っていなかった、だがそれは決して三月十八日のような惨殺の起るのを気づかってのことではない、あのような惨殺というものは、今まで私はいつも「刀筆の吏」の考えでわれわれ中国人を推測していたものの、実際夢にも考えなかったことである。私は彼らが麻痺していて、良心なく、共に語るに足りないということだけは知っていたのだが、何といったところで請願であるし、また徒手であるのだから、あんなに陰険で凶暴であろうとは思いもよらなかった。これを予想できたものは、多分、段祺瑞(トァンチールーイ)(執政)、賈徳耀(クートーヤオ)(總理)、章士釗(チャンシーチャオ)(秘書長)および彼らの同類だけであったろう。四十七人の男女の青年の生命は、完全に欺きとられたのであり、全くの誘殺であった。
 ある者どもは――私はこれを何と呼んだものか、考えつかない――いった、群衆の指導者は道義上の責任を負うべきだと。これらの者どもは徒手の群衆に対して当然発砲すべきであり、執政府の前はもともと「死場所」であり、死者はわれから網にとび込んだものと同じだということを承認しているらしい。群衆の指導者は本来、段祺瑞(トァンチールイ)等の輩とは精神的なつながりをもたないし、またお互いにぐるになっていたのでもない、どうしてこんな陰険な毒手を予想し得たであろう。このような毒手は、少しでも人間らしい気持ちをもった者であれば、何としても予想できないことである。
 私はもし群衆指導者の誤りを指摘するならば、ただ次の二点だと思う、一つには請願ということを有用だと考えていることであり、二つには相手を余りにも善いものに見すぎていることである。

   二

 だが以上はやっぱり事後の話である。私は思うに、この事件が発生しない前には、恐らく誰もこのような惨劇が演じられようとは考えもしなかったであろうし、せいぜいのところ、またいつもの通り徒労に終わるばかりとしか考えなかったであろう。ただ学問のある利巧な人だけが予想して、凡そ請願というものは死ぬことだと認めていたのである。
 陳源(チェンユァン)教授の「間話(むだばなし)」にいっている、「われわれがもし女志士たちに、今後、群衆運動にはなるべく加わらないようにと勧告するならば、彼女たちはきっとわれわれが彼女たちを軽視しているというであろう、だからわれわれも余計な差出口はききたくない。だが未成年の男女児童に対しては、われわれは彼らが今後ふたたびどのような運動にも参加しないことを希望せずにはおられない、まかり間違えば今度のように、銃林弾雨の危険を冒し、蹂躙死傷の苦しみを受けるようなことにもなるのだから」と。
 この度は四十七個の生命をもって、ただ一種の見識を買いとっただけである、それは、この国の執政府の前は「銃林弾雨」の場所であって、そこへ行って死ぬためには、成年になってから、志願するのでなければならない、というのである。
 私は「女志士」と「未成年の男女児童」は、学校の運動会に参加するのなら、多分大した危険はなかろうと思う。「銃林弾雨」の中での請願ということは、たとえ成年の男志士たちであっても、よくよく心にとめて、今後は絶対にやめるべきだ!
 ところで現在どうであるか見よ。数編の詩文が増し、若干の話題が増しただけである。数人の名士と当局者とやらが埋葬地を相談しており、大請願から小請願に形をかえたのである。埋葬ということは、もとより最も妥当な結末である。ところが甚だ奇怪なことに、まるでこの四十七名の死者は、寿命を全うして死んだらどこにも埋葬する所がないので、特別にどこかの官有地をせしめようとしているかのようだ。万生園は大へん近いが、それにしても四烈士の塚の前にはまだ三つの墓碑に一字も刻まれていない、まして円明園では遠方すぎる。
 死者がもし生きている人の心の中に埋葬されるのでなかったら、それは本当に死んでしまったのだ。

   三

 改革はもちろん常に流血を免れない、しかし流血はすなわち改革ではない。血の応用は、ちょうど金銭と同じで、吝嗇(りんしょく)はもとよりいけないが、浪費も大きな損失である。私のこの度の犠牲者に対して、非常に哀(いた)ましさを覚える。
 ただ願わくは、このような請願は、今後は停止するのがよい。
 請願はどんな国にも常にあることだが、死ぬようなことにはならない、ただわれわれは中国は例外であることを知った、「銃林弾雨」を取り除くことができないかぎり。正規の戦法は、相手が英雄であってこそ適用すべきである。漢末(かんまつ)はまだ人の心が古風な時代であったといえるようだ、ある小説に出ている故事を引用することを許していただきたい、許褚(きょちょ)という男は真裸で戦陣に出た、そして幾つもの矢にあたった。それを金聖歎(きんせいたん)(清の批評家)は笑って、「誰が裸になれといったか」といったのである。
 現在のように多くの火器が発明された時代になると、交戦はすべて塹壕戦である。これは決して生命を惜しむのではなくて、生命をむだに捨てたくないのである、それは戦士の生命が貴重だからだ。戦士の少ないところでは、生命はいよいよ貴重になる。貴重というのは「家のなかに珍蔵する」のではなくて、小さい資本(もとで)で極めて大きな利息をかせぐためである、少なくとも、商売としてつり合わねばならない。血の洪水で一人の敵を溺死させたり、同胞の死骸で一つの欠陥を填(うず)めたりすることは、もやは古臭い話である。最新の戦術的な眼からみるならば、そんなことは何とも大きな損失だ。
 この度の死者の、後から来る者にのこしてくれた功績は、多くの奴らの人並みの面の皮をひきはがして、あの思いもよらなかった陰険な心をさらけ出し、引きつづいて戦闘する者に、別種の方法による戦闘を教えたことだ。
   (四月二日)

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