日语美文朗读版:芥川龙之介-煙草と悪魔
すると、或日の事、(それは、フランシス上人が伝道の為に、数日間、旅行をした、その留守中の出来事である。)一人の牛商人(うしあきうど)が、一頭の黄牛(あめうし)をひいて、その畑の側を通りかかつた。見ると、紫の花のむらがつた畑の柵の中で、黒い僧服に、つばの広い帽子をかぶつた、南蛮の伊留満が、しきりに葉へついた虫をとつてゐる。牛商人は、その花があまり、珍しいので、思はず足を止めながら、笠をぬいで、丁寧にその伊留満へ声をかけた。
――もし、お上人様、その花は何でございます。
伊留満は、ふりむいた。鼻の低い、眼の小さな、如何にも、人の好ささうな紅毛(こうまう)である。
――これですか。
――さやうでございます。
紅毛は、畑の柵によりかかりながら、頭をふつた。さうして、なれない日本語で云つた。
――この名だけは、御気の毒ですが、人には教へられません。
――はてな、すると、フランシス様が、云つてはならないとでも、仰有(おつしや)つたのでございますか。
――いいえ、さうではありません。
――では、一つお教へ下さいませんか、手前も、近ごろはフランシス様の御教化をうけて、この通り御宗旨に、帰依(きえ)して居りますのですから。
牛商人は、得意さうに自分の胸を指さした。見ると、成る程、小さな真鍮(しんちゆう)の十字架が、日に輝きながら、頸(くび)にかかつてゐる。すると、それが眩(まぶ)しかつたのか、伊留満(いるまん)はちよいと顔をしかめて、下を見たが、すぐに又、前よりも、人なつこい調子で、冗談(じようだん)ともほんとうともつかずに、こんな事を云つた。
――それでも、いけませんよ。これは、私の国の掟(おきて)で、人に話してはならない事になつてゐるのですから。それより、あなたが、自分で一つ、あててごらんなさい。日本の人は賢いから、きつとあたります。あたつたら、この畑にはえてゐるものを、みんな、あなたにあげませう。
牛商人は、伊留満が、自分をからかつてゐるとでも思つたのであらう。彼は、日にやけた顔に、微笑を浮べながら、わざと大仰に、小首を傾けた。
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