日语美文朗读版:芥川龙之介-煙草と悪魔
そこで、牛商人は、毘留善麻利耶(びるぜんまりや)の加護を願ひながら、思ひ切つて、予(あらかじめ)、もくろんで置いた計画を、実行した。計画と云ふのは、別でもない。――ひいて来た黄牛の綱(はづな)を解いて、尻をつよく打ちながら、例の畑へ勢よく追ひこんでやつたのである。
牛は、打たれた尻の痛さに、跳ね上りながら、柵を破つて、畑をふみ荒らした。角を家の板目(はめ)につきかけた事も、一度や二度ではない。その上、蹄(ひづめ)の音と、鳴く声とは、うすい夜の霧をうごかして、ものものしく、四方(あたり)に響き渡つた。すると、窓の戸をあけて、顔を出したものがある。暗いので、顔はわからないが、伊留満に化けた悪魔には、相違ない。気のせゐか、頭の角は、夜目ながら、はつきり見えた。
――この畜生、何だつて、己(おれ)の煙草畑を荒らすのだ。
悪魔は、手をふりながら、睡(ね)むさうな声で、かう怒鳴つた。寝入りばなの邪魔をされたのが、よくよく癪(しやく)にさはつたらしい。
が、畑の後へかくれて、容子(ようす)を窺(うかが)つてゐた牛商人の耳へは、悪魔のこの語(ことば)が、泥烏須(でうす)の声のやうに、響いた。……
――この畜生、何だつて、己の煙草畑を荒らすのだ。
それから、先の事は、あらゆるこの種類の話のやうに、至極、円満に完(をは)つてゐる。即(すなはち)、牛商人は、首尾よく、煙草と云ふ名を、云ひあてて、悪魔に鼻をあかさせた。さうして、その畑にはえてゐる煙草を、悉く自分のものにした。と云ふやうな次第である。
が、自分は、昔からこの伝説に、より深い意味がありはしないかと思つてゐる。何故と云へば、悪魔は、牛商人の肉体と霊魂とを、自分のものにする事は出来なかつたが、その代(かはり)に、煙草は、洽(あまね)く日本全国に、普及させる事が出来た。して見ると牛商人の救抜(きうばつ)が、一面堕落を伴つてゐるやうに、悪魔の失敗も、一面成功を伴つてゐはしないだらうか。悪魔は、ころんでも、ただは起きない。誘惑に勝つたと思ふ時にも、人間は存外、負けてゐる事がありはしないだらうか。
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