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日本风土人情解读 第109期 感受东京秋天的气息

时间:2011-09-19 18:32:58  来源:可可日语  作者:huangwen

現在の上野公園一帯には、かつて、寛永寺という巨大な寺がありました。これは、徳川三代将軍の家光が、父のように慕っていた謎のお坊さん、天海僧正の意見に従って建てたもので、江戸の町から見て鬼門に当たる上野の山にあります。108歳まで生きたと言われる天海僧正は、風水に通じた人で、これ以外にも、江戸の町のデザインをいろいろ考えました。

现在的上野公园一带,曾经有一所叫宽永寺的巨大寺庙。这是德川第三代将军家光依据曾深受其父青睐的神秘和尚天海僧正的建议修建的,其地处江户城之鬼门上野山。据传活到108岁的天海僧正精通风水,除此以外还对江户城的规划也颇有建树。


隆盛を誇った寛永寺は、幕末の上野戦争でほとんど燃えてしまい、今の寛永寺は、国立博物館から少し歩いたところの一角にある、小さなお寺です。いや、境内はそこそこに広いが、今の上野公園以上に広かった江戸時代と比べれば小さいということ。そこには今、根本中堂というお堂があります。これは、天海僧正が寛永寺を作る際にお手本にした京都の比叡山延暦寺の一番大切なお堂と同じ名前です。

繁盛一时的宽永寺在幕末时期的上野战争中几乎延烧殆尽,如今的宽永寺位于国立博物馆不远处之一隅,只是个小寺院。其实其占地并不小,只是与江户时期胜于今日上野公园的占地相比就显得狭小寒碜了。现今那里还有一个叫根本中堂的堂社。这是天海僧正建立宽永寺时,以其所模仿的京都比叡山延历寺中最重要的堂社命名。

しかし、このお堂は、昔からあったものではなく、川越の喜多院というお寺から移築されたものです。なぜ、はるばる川越からお堂が運ばれたか、それは、天海僧正に深い関係があります。天海僧正は、もともとその喜多院の住職さん。喜多院が焼けた際は、江戸城の一部を移築したほど有力なお寺です。そして、上野の寛永寺が焼けてしまったときには、喜多院が、その本堂を寛永寺にプレゼントしたのでした。

然而,该堂并非古来即有,而是从川越的喜多院寺迁移过来的。为何要不远千里从川越搬过来呢?只因其与天海僧正渊源颇深。天海僧正原是喜多院寺住持,喜多院被焚时,甚至迁建了江户城的一部分,可见其原本规模多么宏大。而上野的宽永寺焚毁时,喜多院遂将其本堂作为礼物送给了宽永寺。

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