魔幻小说:《伯爵与妖精》卷一 第一章1.1
蒸気船がいくつも停泊している波止場《はとば》は、積み上げられた荷の隙
間《すきま》を歩く乗船客でごった返していた。
ここから船に乗って、ロンドンへ向かう予定だ。
ニコは、まるでふつうの猫のように、リディアのスーツケースの上に乗っか
っていた。
「自分の足で歩きなさいよ。重いんだから」
「四つんばいで歩くのは、疲れるんだよな」
そう言って、わざとらしくミャーと鳴いた。
「失礼、ミス?カールトン?」
声をかけられ、リディアは立ち止まる。
見知らぬ男が、軽く帽子を上げて微笑《ほほえ》んだ。
「どうもはじめまして。あなたの父上にはいつもお世話になっています、ハス
クリーと申します」
「ええと、父の同僚の方?」
「ええ、大学で助手を務めています。今日はお嬢《じょう》さんをお迎えに来
ました。ロンドンまで、おひとりではご不便でしょう?」
丁寧《ていねい》な話し方をする。年の頃は二十代後半くらいだろうか。紳
士的な人だと感じた。
「わざわざ、あたしを迎えに来るように父が? それじゃあ職権《しょっけん
》濫用《らんよう》ですわ」
「ご心配なく。大学の用件でエジンバラまで来たものですから。お宅へ使いを
やったのですが、すでにお留守だったので、行き違いになったかと心配してい
ました」
父にしては気が利くわ、とリディアは思った。
研究以外には、子供みたいにおっとりのんびりしていて、まるで気のまわら
ない人なのだ。
「ありがとうございます、ハスクリーさん。それにしても、あたしがカールト
ンだって、どうしてわかったんですか?」
「ひとり旅のレディは、なかなか目立ちますよ」
たしかにそうだ。それもリディアくらいの、未婚の若い娘が、ひとりで船に
乗るなんてそうそうない。だいたい彼女がひとりで暮らしていることすら、そ
れなりの階層の家庭ではあり得ないから、ますます変わり者のレッテルを貼ら
れてしまうのだが、あの家には家政婦《ハウスメイド》が居着かないのだから
しかたがない。
夜ごと、妖精たちが騒ぐ家なのだから。
「じつのところ、髪の色が錆《さび》……いえ赤茶色だとしかわからなかったも
ので、助かりました」
錆色、と彼が言いかけてやめたのは、そんなふうに陰口をたたかれることを
日ごろ気にしているだけに、リディアは少し落ちこんだ。
たしかに、くすんだような赤茶はそんな色合いだし、自分でもコンプレック
スに感じている。
父が彼にそう言ったのだろうか。むろん父は、年頃の娘ならひどく気にする
些細《ささい》なことなど、気づくはずもない鈍感な人だからしかたがない。
ともかくリディアは、この親切な紳士にはなんの落ち度もないと思い直し、
微笑んだ。
髪の色をとりたててほめることはできないとしても、今のところハスクリー
氏は、リディアをふつうの少女だと思っている。だからレディとして扱ってく
れているし、それでじゅうぶんではないか。
けれど、やはり妖精話をしたら変わるのだろうか。とはどうしても気になっ
てしまうことだった。
表向きは態度を変えなくても、変わり者だと思うのだろう。
そんなふうに考えれば、結局リディアは、自分の方から、他人に対して一歩
引いてしまうのかもしれなかった。
どう思われても、あたしはあたし。
気を取り直して自分に言い聞かせ、荷物を彼に預ける。
リディアには重いスーツケースを軽々下げて、彼が歩き出すと、ケースから
飛びおりたニコがささやいた。
「おい、信用するのか? あの先生にかぎって、こんなふうに気がまわるなん
ておかしいぞ?」
「じゃあいったい、何の目的があってあたしに近づくっていうの? 身代金《
みのしろきん》目当ての誘拐《ゆうかい》なら、もっとお金持ちをねらうでし
ょ? うちときたら、少しでも余裕があれば、父さまが収集と研究につぎ込ん
じゃうのよ」
ニコは不服そうだったが、反論の余地がなかったのか黙り込む。
警戒する必要もなく、ハスクリー氏はまっすぐに、リディアが乗る予定だっ
た客船へと乗り込んだ。
思いがけなかったことはといえば。
「あの、あたしのチケットはこんな上等の個室じゃないんですけど」
案内された船室が、ずいぶん広い部屋だったのだ。
「ええ、教授が予約を入れたので。こちらをお使いください。私は隣の部屋に
いますので、何かあったらいつでも呼んでくださいね」
それだけ言って、彼は立ち去る。
結局、何の問題も危険もなさそうだった。
「ほらニコ、勘《かん》ぐり過ぎよ」
リディアは広々としたベッドに身を投げ出す。
「出航までは、まだ時間があるわね」
そうつぶやいたとき、部屋の片隅で不自然な物音がした。
「……何?」
クローゼットの方だったと、そっと近づいてみる。思い切って、勢いよく戸
を開く。
が、中は空っぽだ。
ほっとしたそのとき、背後で気配が動いた。
カーテンの影から突然出てきた人影は、リディアの口を手でふさぎ、後ろか
ら羽交《はが》い締めにする。
力いっぱいもがこうとするが、動けない。ニコが背中の毛を逆立ててうなる
が、しょせんは猫だ。役に立たない。
「助けてくれ、お願いだ……」
と、侵入者《しんにゅうしゃ》は、リディアの耳元でささやいた。
助けてくれって、こっちがお願いしたいわよ。そう思いながらも抵抗する。
「静かに、聞いてくれないか。あの男は、……きみをここへ連れてきた男は、悪
党の手先だ。このままじゃ、きみもひどい目に遭《あ》うよ」
意外にもおだやかな、品のある口調。それに、ハスクリー氏が悪党の手先?
リディアが力を抜くと、もう叫んだりしないと判断したのか、侵入者の男は
、彼女の口元から手を離した。それでもまだ、リディアのことはつかまえたま
まだ。
「どういうことなの? あなた、誰?」
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