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日语和歌《百人一首》之第十首:逢坂关多流落人

时间:2012-07-20 17:17:37  来源:可可日语  作者:ookami

注释:

(1)これやこの:「これ」是指逢坂关。「や」是间投助词,表示感叹,相当于汉语的语气助词“啊”、“呀”之类,以楚辞喻之,就是“兮”。「この」修饰最后的「逢う坂の関」。这首和歌使用了「体言止め」的手法,全歌的架构是「これや、この××××逢う坂の関」,中间三句都是最后的「逢う坂の関」的定语。

(2)行くも帰るも:「行く」、「帰る」都是动词连体形,后面省略了要修饰的中心词「人」。「行く」指从京都出关往东,「帰る」指从东方过关回到京都。

(3)別れては:「別れ」与「逢う坂の関」中的「逢う」相对,在这种相对的关系之下,表达出对希望与现实之间巨大反差的无奈。

(4)知るも知らぬも:「知る」、「知らぬ」都是动词连体形,后面省略了「人」,句式和第二句一样。

(5)あふ坂の関:即「逢う坂の関」,是逢坂山上的关隘。逢坂山又名手向山,因山腰上有两条坂道交叉会合,故名“逢坂”。逢坂关位于现在京都府与滋贺县的交界处,是从京都往东国的必经之地。壬申之乱时,大友皇子与大海人皇子曾在逢坂关展开激烈决战。在古代,近江逢坂关、伊势铃鹿关、美浓不破关合称为“三关”。

创作背景:

逢坂の関で、別れていく人みていた蝉丸。「ここで別れた人たちはまた逢えるのかなあ。」そう思ってこの歌を作ったそうです。

作者:

蝉丸(?~?)
平安時代初期の人ですが、生まれた年など詳しいことは不明。『今昔物語』によると、宇多天皇の皇子敦実親王に仕える官位の低い役人で、琵琶の名手だったとたいわれます。

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