魔幻小说:《伯爵与妖精》卷一 第三章3.1
真実と偽りのフーガ
うち捨てられた井戸だったが、涸(か)れてはいなかった。草に埋もれていた手桶(ておけ)を洗い、リディアは水を汲(く)む。欠けたカップとゆがんだ鉄鍋は、台所だったと思われる土間(どま)の隅で拾ってきた。
壊れかけた無人のあばら屋は、風にあおられ木戸が泣くような音を立てている。
道から少し離れているこの場所は、林が目隠しになって、日が暮れてしまえば、ハスクリーたちが追ってきたとしても建物があるとは気づかれないだろうと思われた。
「なあリディア、とっとと逃げた方がいいんじゃないか?」
井戸を囲う石垣(いしがき)に、ニコが姿を現した。
「どこ行ってたのよ。はぐれたかと思ったわ」
「ちゃんとくっついてきてたぜ。姿を見えなくしてたけどさ」
「そうよね、おまえって危険なときはさっさと消えるの」
「んなこと言ったって、あの乱闘でどうしろと? あんたを見失わないようにするのが精一杯さ。それより、水汲みなんかしてる場合じゃねえだろ」
リディアはため息をついて、ニコの隣に腰かけた。
そうかもしれない。逃げるなら、今がチャンスなのではないか。
あばら屋の中で、エドガーがこちらを見張っているのかもしれないが、彼は怪我(けが)をしている。今なら逃げおおせるかもしれない。
怪我をしたエドガーにむりやり馬車に乗せられてから、どのくらい走っただろうか。しばらくして、彼は馬を止めさせた。御者(ぎょしゃ)にはこのまま隣町まで走るようにと、そうしていくらかの口止め料も上乗せしてお金を握らせ、畑を縫(ぬ)うあぜ道を歩き出した。
たぶん、ハスクリーが馬車を追うことを想定したのだろう。
そうして、日暮れとともに見つけたこのあばら屋で、夜を明かすことにしたのだ。
拘束されているわけでもないのに、結局リディアは、ここまでエドガーが促すままについてきた。
まっ暗な夜道、街灯のひとつも、人家もない野の道では、強盗犯の存在でも心細さをなぐさめてくれるのだろうかと思うと理不尽(りふじん)な気持ちでいっぱいだった。
そう、強盗犯なのだ。
「あいつ、やっぱ手配中の強盗だったんだな」
「……みたいね」
エドガーは、ハスクリーと名乗っていた男のことを、ゴッサムと呼んだ。ゴッサムという名は、新聞に出ていた、強盗にあって殺されかけた被害者の名前だ。
ハスクリーはゴッサム氏の息子。エドガーが屋敷から金を奪ったとき、ねらいをはずして自分の父親を撃ってしまった。
とにかくリディアにも、そこまでは理解できた。
「でも彼は、奪ったお金のことを慰謝料(いしゃりょう)だって言ってたわ。それに、ゴッサム親子も何か悪いことしてるみたいな言い方だったし」
「リディア、悪党どうしが仲間割れで殺し合おうが勝手にすればいいさ。けどおれたちが巻き込まれてやることはないだろ。舌の入れ墨を見るまでもなく、あいつはただの強盗じゃない。サー?ジョン、って呼ばれたろ? アメリカで処刑されたはずの……」
「わかってるわよニコ。でも」
リディアは手のひらにできた浅い切り傷を見つめる。ハスクリーに抵抗しようとしてできたのだ。
「あたしをかばってくれたわ」
「あのな、それはあんたがいないと、青騎士卿の宝剣が見つけられないからだろ」
「そうなんでしょうね。けど、あたしを助けておいて自分が死んだりしたら元も子もないじゃない」
「だから死んでないし、死にそうな怪我でもないってことだ。あんたの同情を買うためなら、五百ポンドより安いかもな」
まったく、ニコの言うとおりなのだろう。
そしてニコは、手のひら、というより前足の肉球に置いた白い粒をリディアに示した。
「こいつを湯に溶かして奴に飲ませろ」
「何なの?」
「妖精秘伝の眠り薬さ。奴を眠らせるんだ。そうすりゃ、追われてつかまる心配もない。今ならあの、歩く武器みたいな召使いもいない」
「そっか。……そうよね、逃げるチャンスは、レイヴンとアーミンもいない今なのよね」
「しっかりしてくれよ」
本当に、どうかしている。
逃げ出さなければ、強盗犯に何をされるかわからないというのに。
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