每日阅读(8.30):句読点
長さが一定で改行のないこのコラムでは、句読点の置き方に制約がある。字数があふれて削るテンもあれば、半端な位置のマルに手を焼く日もある。句点も読点も、一筋縄ではいかない。
ひとすじ‐なわ〔ひとすぢなは〕【一筋縄】
一本の縄。また転じて、普通のやり方。尋常一様の手段。
本专栏字数是规定好的,多出一行也不行,因而标点符号的用法也有限制。有时超过了字数得删去些逗号,有时会就多出的句号而大伤脑筋。句号也好逗号也好,都不能跟平时一样随心使用。
どの道にも専門家はいるもので、たとえば群馬県高崎市の元高校教諭、大類(おおるい)雅敏さんは句読法を研究して40年になる。『句読点活用辞典』など著作も多い。同学の士が集まると「モーニング娘。」の「。」は是か非かなどと議論に花が咲くそうだ。
行行出状元,就像群马县高崎市原高中教师大类雅敏先生,研究标点符号的用法已达40年之久。著有《标点符号活用辞典》等诸多著作。据说同好们聚在一起时,经常为诸如“早安少女。”中是否该加句号之类的问题讨论得热火朝天。
大類さんによると、西洋ではプラトンの昔から句読法が盛んに研究されてきた。コンマ、ピリオド、セミコロンと種類も多い。日本では紫式部のころには文章に句読点がなかった。疑問符や感嘆符も江戸期の輸入品である。
据大类先生所说,西方从柏拉图时代起便开始盛行研究标点符号的用法。逗点、句点及分号等种类繁多。日本在紫式部的时代文章中均没有标点符号。问号及感叹号也是江户时期所引进的。
大類さんが句読点にひかれたのは20代後半、権田直助という幕末の学者の著作に接してからだ。権田は神官にして医家で尊皇の志士でもあった。政治犯として幽閉された明治初年、句読研究に没頭し、「国文にもきちんとした句読法を確立せよ」と主張した。生家の跡が埼玉県毛呂山(もろやま)町にある。
大类先生倾心于标点符号的研究始于他二十几岁后半期时接触到一名名为权田直助的幕末学者的著作。权田作为一名神官医生的同时,也是一名尊皇派志士。在明治初期,他作为一名政治犯被幽禁,自此开始潜心研究标点符号,并主张“需要严谨规范好国文中标点符号用法”。权田直助故居遗址位于琦玉县毛吕山镇内。
句読点といえば、福島県猪苗代町の野口英世記念館で見た、母シカ自筆の手紙が忘れがたい。「おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけました」。どうか帰国して下されと英世に訴える書状だが、実物を見ると、マルの一つひとつが字ほどに大きい。しかも行の隅でなく中央に置かれている。
说起标点符号,笔者想起曾参观过福岛县猪苗代镇的野口英世纪念馆,在那儿拜见到野口博士母亲的亲笔书信很是让人难念。“你终于出人头地了,大家都很吃惊”。信中呼唤着英世,让他无论如何都要回国。而看到实物时,实觉一个个句号都如字一般大小。而且均写在行列中央而非一角。
幼い頃に覚えた文字を思い出してつづった手紙だという。テンも兼ねた大きなマルが、母親の一途な思いを伝える。句読点の結晶を見る思いがした。
いち‐ず〔‐ヅ〕【一▽途】
[名・形動]
他を考えないで、一つのことに打ち込むこと。また、そのさま。ひたすら。ひたむき。「―に思いつめる」「学問―の人」
据说这是野口博士母亲努力回想起小时候所学过的文字而写下的书信。兼用为逗号的巨大句号,正传达了母亲对儿子无限的思念。不由让人觉得,看到了一份标点符号凝成的结晶。
附:
のぐち‐ひでよ【野口英世】
[(一八七六~一九二八)]細菌学者。福島の生まれ。幼名、清作。伝染病研究所に入り、北里柴三郎に師事。明治三三年(一九〇〇)渡米し、蛇毒や梅毒スピロヘータを研究。ガーナのアクラで黄熱病研究中に感染して病没。
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