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每日阅读(12.14):萩原朔太郎

时间:2008-12-14 09:20:33  来源:本站原创  作者:Echo

公園の梅の木の下に、青い実が落ちている。先刻の小糠(こぬか)雨で実の皮にできた滴が、5月の東京の空を映す。やがて雲間から日が差し、木々の若葉が光り始めた。

こぬか‐あめ【小×糠雨】

雨滴が霧のように細かい雨。ぬか雨。

       公园的梅树下,青色的果实掉落。果实外皮上还残留着方才飘零的牛毛细雨,一滴滴照映着东京五月的天空。很快阳光从云的隙缝间渗下,树木的嫩叶开始熠熠发亮。

 

 「若草の上をあるいてゐるとき、/わたしの靴は白い足あとをのこしてゆく……ああすつぱりといつさいの憂愁をなげだして」。萩原朔太郎は、この季節を愛した。「若くさの上をあるいてゐるとき、/わたしは五月の貴公子である」(『月に吠える』)。

       “踱于萌生的青草上时/我的鞋子留下白色的足印……啊,将所有忧愁抛诸脑后。”秋原朔太郎深爱着这个季节。“踱于萌生的青草上时/我成了五月的贵公子。”(《吠月》)

 

 20代の頃に妹に送った手紙には、新緑は、夏の盛りのどす黒いような不快な青とは違うと書いた。「見るからに晴々した透き通る様な青です」。朔太郎は、昭和17年、1942年の5月11日に55歳で他界した。

どす‐ぐろ・い【どす黒い】

[形]どすぐろ・し[ク]色が黒く濁っている。きたならしく黒ずんでいる。「―・い血」「―・くよどんだ川」

       朔太郎20几岁寄给妹妹的书信中,写到新绿与盛夏里黑乎乎的令人不快的青色不同。“看上去很明快,很清澈的青色。”朔太郎于昭和17年,1942年5月11日与世长辞,享年55岁。

 

 詩誌「四季」の追悼号には、高村光太郎や斎藤茂吉、室生犀星らの文が並んでいる。中に、「師よ 萩原朔太郎」と題する三好達治の詩があって、毎年この時期になると読み返す。

       诗刊《四季》的追悼号中登载了高村光太郎、斋藤茂吉和室生犀星等人的作品。其中,有一首三好达治所写的以“师父啊,秋原朔太郎”为题的诗歌,每年到了这一时期笔者都会去重读。

 

 詩人としては認められていたが、世間の常識とは大きな隔たりを痛感しつつ生きた朔太郎に、まず「幽愁の鬱塊」と呼びかける。「あなたのあの懐かしい人格は/なま温かい熔岩(ラヴア)のやうな/不思議な音楽そのままの不朽の凝晶体」だったとうたう。

       尽管作为一名诗人,朔太郎已经被世人认可了,但他深深感受到自己与人间常情产生了很大的隔阂。达治诗中首先将这样的朔太郎称为“幽愁的极端阴郁者”,其中吟颂到:“你那另人难以忘怀的人格/像是微温的熔岩般/那是奇异的音乐凝成的不朽的晶体”。

 

 「夢遊病者(ソムナンビユール)/零(ゼロ)の零(ゼロ)」と書き、「あなたばかりが人生を ただそのままにまつ直ぐに 混ぜものなしに 歌ひ上げる」と記した。確かに朔太郎の詩句は、詩の源泉からわき出る、混じりけのない流れだったかも知れない。逝って64年。自らを貴公子と呼んだこの季節には、若草の上をゆく姿が、薫風の中によみがえるような気がする。

       此外还写道“梦游患者/零中的零”,“只有你 忠实而率直地 不容一丝混淆地 歌颂着人生”。朔太郎的诗句或许确实是从诗的源泉中涌出的不掺任何杂质的清流。逝去的64年。在他自称贵公子的这一季节,笔者感觉他踱于青草上的身姿像是在和风中重生了。

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